相善神の由来
由来
敏達天皇の御代(約六世紀ころという)、都に世にも美しい、身分えの高い姫君がいた。 ある年の三月、梅の花の風情を賞でようと、供ぞろえをし輿を召してお出ましになった。
邸内の馬屋には筑紫は唐津より献上の今帝駒という三代の天子に仕えた名馬が飼われていたが、姫の輿が近づくと、突然高くいななき、馬屋の板を蹴り上げて暴れ出した。姫はこの有り様を見て、不吉に思いその日は外出を取りやめた。しかるにその夜今帝駒は姫の夢の中に現れ、間もなく姫は懐妊した。時の大臣はかねて姫に思慕を寄せていたが、今帝駒が姫と通じたのを知ると激怒し、馬屋に入って駒を殺そうとしたが、かえって駒に食い殺されてしまった。
このため姫は罪に問われて、うつぼ船に乗せられ伊勢の二見浦から海へ流された。船は潮のまにまに、奥州宇多郡の浜辺に流れ着いた。土地の豪族糠塚太夫なる者が姫を哀れみ、浜近くに雨露をしのぐばかりの仮屋を建てて住まわせたが、後に半里ほど西へ入った相善の地に移して扶持することになった。
やがて月満ちて姫は一子を産み落とした。権太夫は赤子を見て驚いた。生まれた子の顔があまりに馬に似ている。姫の落胆を思った権太夫は子を秘して姫に見せないことにした。しかしわが子に会いたい姫の思いは募るばかり。権太夫も根負けして「それでは池のほとりに子を連れて行くから、池の水に映る子の顔を見よ」といった。その日がくると、姫は丘にのぼり池水に映るわが子の顔を見たが、驚きのあまり病気になって死んでしまった。
これより先、今帝駒は姫の跡を慕ってはるばる奥州へ下り、相善の姫と再会し、姫の無事を喜んで都へ戻って行った。この故事により、この地を駒返りの嶺と呼ぶようになったという。一方、都の方では金帝駒が逃げたのを知り、追手を差し向けた。奥州へ下ってきた追手は、途中で駒と出会い、連れ戻すことができたので、その地を行き会い道という。
新地町史「自然・民俗編」(平成5年10月1日発行)