貝塚について
三貫地貝塚
名称
三貫地貝塚
所在地
駒ヶ嶺三貫地西
指定年
昭和45年12月10日
県史跡指定
概要
新地貝塚とほぼ同年代、縄文時代の後期から晩期にかけての内湾性貝塚。 海岸から直線で約四キロの地点、水田地帯に続く標高10メートル余の舌状台地にある。大正時代に、山内清男により紹介された。昭和27年に、東北地方南部における縄文時代の後期から晩期の編年的研究を行うため日本考古学協会縄文式文化の編年研究特別委員会により発掘された。また、昭和29年に東京大学類学教室により発掘調査が行われた。2回にわたる調査の結果、百数十体の埋葬人骨から、縄文人はアイヌ人説を否定する貴重な資料となった。人骨は、屈葬、伸展葬、幼児のおう棺葬など多彩で、その中には頭部を寄せ集めて円形に埋葬したものもある。また家犬の埋葬骨もあった。これらの埋葬骨からの推定で、平均寿命は男29.2歳、女31.1歳と推定された。出土品は、石ぞく、打製石斧、磨製石斧、石錘など。また特色があるのは骨角器で、銛が最も多く、骨ぞく、骨針、つり針など、その他の土偶、動物土偶、土版、耳飾、硬玉、ヘアピン、腰飾りなどが発掘された。昭和51年から55年にかけて、この地域が圃場整備事業計画に含むため、同貝塚の周縁部の「三貫地遺跡」を町教育委員会により発掘調査が行われた。この結果、縄文中期末の複式炉跡、後期初頭のおう棺墓、晩期の完形土器を含む多量の遺物包含層をはじめ、古墳時代前期の竪穴住居跡を含む奈良、平安時代の竪穴住居跡群、平安以降の掘建の建物跡など、貴重な遺構、遺物が発見され、重要な複合遺跡であることが判明した。
新地貝塚
名称
新地貝塚 附手長明神社跡
指定年
昭和5年2月28日
国史跡指定
概要
縄文時代の一部中期を含み、後期から晩期の内湾性貝塚。鹿狼山の麓から東方にのびる丘陵の先端、標高10メートル余の台地(主として畑地)にあり、海岸まで直線にして約2キロの地点にある。仙台藩の儒学者佐久間義和の「奥羽観蹟老志」の中に、”昔鹿狼山に手の長い神が住み、その長い手を海までのばして、好きな貝を取って食べ、殻(から)を捨てた所が貝塚になった”という伝説が紹介されてあることで、広く知られており、明治23年(1890)に若林勝邦、大正13年(1924)に山内清男、八幡一郎等の考古学者の手で発掘報告された。
出土品は、打製石器、磨製石器、石ぞく、石ひ、石剣、凹石など、また骨角器としては、日本最初の報告となった鹿角製ヤス、鳥骨製紐飾、貝輪など、とくに土器は磨消縄文に、瘤付土製器、土偶など多数出土し、仮称であるが、新地式土器と名付けられ、東北南部の後期末の標式土器となった。また、貝塚の北辺の台地には、「山海道遺跡」がある。これは昭和50年(1975)に行われた圃場整備工事のために新地町教育委員会により発掘調査をすすめ、その結果、縄文時代中期から、奈良平安期までの複合遺跡であることが判明した。出土品は、土師器の杯やかめ、高杯、須恵器など、また複式炉も発見された。縄文時代の一部中期を含み、後期から晩期の内湾性貝塚。鹿狼山の麓から東方にのびる丘陵の先端、標高10メートル余の台地(主として畑地)にあり、海岸まで直線にして約2キロの地点にある。