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城趾について

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年3月10日更新

新地城(蓑首城)跡

名称

新地城(蓑首城)跡

所在地

谷地小屋字舘前

概要

相馬氏により築かれた。谷地小屋要害をつくったあと間もなく新しく築いたとされている。JR常磐線新地駅の西方約1.8キロメートルの地点の丘陵上にある。最も高い地点は、標高約48メートルで、眼下に周辺の地域が一望のうちに見下ろせる。
「仙台領古城書上」に『山、谷地小屋城、東西50間、南北50間』とあり、また「仙台領古城書立之覚」には、面積3,748坪とある。
本丸跡と考えられる所は、東西南北とも数十メートルの平場をなしている。本丸の全周は土塁と、濠が残っており、さらに東舘、北屋形、西舘を囲んで外濠の跡もみられる。
本丸を囲んで、西舘、東舘、北屋形がある。「奥相茶話記」や「東奥中村記」に築城の前後のことが記されており、それによると、谷地小屋要害を捨て、新地の山に城を構え門馬雅楽介を城代においた。雅楽介は1年ほどで病死し、泉田甲斐を新たに城代とした。築城して20数年後、天正17年5月に、伊達政宗は、相馬の虚をついて攻め入り、新地、駒ヶ嶺を手に入れ、亘理重宗を城代とし、その後大町主計が城代となった。

 

駒ヶ嶺城(臥牛城)跡

名称

駒ヶ嶺城(臥牛城)跡

所在地

駒ヶ嶺字城内

概要

 当初相馬氏が築き、のち伊達方により修築された。当初駒ヶ嶺藤崎に舘を築いたが、間もなく、新地城とほぼ同時に新しく築 いたとされている。JR常磐線駒ヶ嶺駅の西方約1キロ地点の丘陵上にある。「仙台領古城書」には、『山、駒ヶ嶺城東西24間、南北52間』とあり、「仙台古城書立之覚」には、面積1,248坪とある。城郭の南西に白鳥神社があり、ここから北東の丘陵一帯に築かれている。本丸跡は、東西約60メートルに、南北約30メートルの平場となっている。東と西の門跡には枡形の土塁が残っており、また本丸より一段低く西舘、南に二の舘、東に三の舘の跡があり、その周囲を外濠がめぐらされている。「東奥中村記」に『宇多郡駒ヶ嶺ニハ元来城無シ、新地便宜ノ為、藤崎村ニ屋敷構ヘシテ原如雪ヲ置レシガ城無クテハ始終如何成リトテ、盛胤の御代切開レテ城トハ成リヌ』とある。また、「奥相茶話記」には『駒ヶ嶺元来は城なし 新地の繋に駒ヶ嶺の下藤崎村に原如雪を屋敷構にて指置る 而れども城無にては新地の繋に難成とて盛胤駒ヶ嶺の山を切り平げて城になし玉ふ』とあり、相馬盛胤は当初藤崎に屋敷をつくって重臣の原如雪をおいたが堅固な城が必要となり、ここに本格的な城を築いたものと考えられている。城代は、原如雪の嫡子藤崎摂津である。原の姓は、藤崎を賜ったことで藤崎となった。相馬盛胤は、享禄2年(1529)に生れ、天正6年(1578)に隠居し、慶長6年(1601)に死去している。伊達との争いが最も激しかったのは、永禄から天正にかけてであり、駒ヶ嶺の築城は、この間に行われたものとされている。天正17年5月に政宗の進攻によって落城、政宗は黒木備前を城代とした。このあと伊達忠宗、桜田玄蕃、新田下総、富塚長門と代わった。そして享甫3年(1718)から、伊達一族の宮内主税が城代となり駒ヶ嶺など1,400石を領し、明治維新まで続いたが、慶応4年戊辰戦争の前線基地となり、同年811日、官軍方の攻撃によって炎上し、歴史の幕を閉じた。