小川あんこ地蔵由来
由来
元禄年間のころ、「家山(かざん)」という和尚が、全国を巡ること三度、小川の地が最も住みよいところであることがわかり、永住の地と決めた。この地は、清水がわき、海にも山にも近く、雪もあまりふらず気候温和であり、また当時貴重品である塩もあり、海の幸、山の幸が豊かなところであった。
小川に居をかまえた家山和尚は、たちまち村人の信頼を得た。それは和尚が大変こども好きで、いつもこどもたちに囲まれていた事も、村人から好感をもたれる結果になった。 こうしていつしか和尚は、「子安家山坊(こやすかざんぼう)」とよばれ、親しまれるようになった。
やがて家山和尚は、寄る年波に死期を覚り、人々を救う思いを地蔵尊に託して残そうと考えた。そして丸森の石工に依頼して地蔵尊をつくり、小川の人々や、沿道の人たちに手伝ってもらいながら、大内、大沢、赤柴を通り小川まで運び建立した。家山和尚は、人々の幸せを願いながら永眠したが、その際、毎年7月23日を祭日として供養してほしいといい残していった。
地蔵さんに姿をかえた家山和尚への敬慕の思いは年毎に深まっていき、いつからとなく、こどものかさこ(湿疹)を治す地蔵さまという評判がたち、お参りをする人が多くなっていった。かさこができたときは、“あんこもち”をつくり、それを地蔵さんにあげ、その半分をいただいてかさこにぬる、あるいはそれを食べるとかさこは治ってしまうという。地蔵さんとかさこがどうして結びついたかということについては、「家山」という和尚さんの名から生まれたのだという説があるが、しかし、和尚さんは生前こども好きだったから、おそらくこどものかさこの治療なども、しばしばやっていたに違いない。そうした遺徳が表れたものと考えられるのである。
こうして人々から「小川のあんこ地蔵さま」と親しまれ、時代が移り変わっても、小川の人々は家山和尚を忘れることなく毎年お盆の7月23日(昭和36年から月おくれのお盆となり8月23日になった。)には、あんこもちをつくって地蔵さんにあげ、盆踊りを踊って盛大に供養を行ってきた。この美風はこれからも永く伝えられるものと思う。
余聞
家山和尚には、約3反歩の田地があり、和尚は自分の死後の供養費は、ここから採れる米であてるように言い残したという。明治23年に旧国道が建設され、それまで賑わっていた浜街道はさびしくなったため、浜街道の字坂越地内にあった地蔵さんを二羽渡神社の前に移し、さらにその後二羽渡神社境内の現在の所に移した。また、坂越には子地蔵さんがあり、最初子地蔵さんは移さずそのままおいたが、ある人にお告げがあり、ぜひ一緒にいてほしいと家山和尚が願っている事が分かり、子地蔵さんも二羽渡神社の境内に移した。旧浜街道の坂越地内の元の場所には、供養塔や庚申塚など6基の石碑があったが、昭和49年に小川牧野組合が所有地(約40ha)を相馬地域開発計画のため県農業開発公社に売却し、ここもその地域に入っていたので、昭和49年8月23日にすべて二羽渡神社の境内に移した。6基の石碑は次のようなものである。
- 「南無阿弥陀仏」3基
- 元禄4年
- 安永2年
- 寛政9年
- 「庚申供養」1基
- 宝暦11年
- 「湯殿山」1基
- 文政13年
- 「道標」1基」
- 目黒 美津英 記 (昭和49年8月)
全景 |
二羽渡神鳥居 |
|
二羽渡神社 |
あんこ地蔵 |
二羽渡公園 |